廃村 十二ヶ沢 ~かつての中心地に分校眠る~

廃村 十二ヶ沢(じゅうにがさわ)

廃村 十二ヶ沢 入口

人おらずとも、田んぼへ喜びを覚えたり。

About 廃村 十二ヶ沢

秋田県由利本荘市矢島町立石十二ヶ沢にある廃村。2004年無人。最盛期7戸とされているが、2018年現在家屋は一棟を残すのみである。不審火による全焼などでなくなったものもあるというが、周辺の廃村よりも状況は荒れているように感じられる。

スポット評価

終末度合い13
訪問難易度16
観光地要素11
化石的価値14
総合評価54

ここから更に奥に行くと廃村「行平」廃村「貝喰」が出現するためどうしても印象が薄い。いつの間にか屋敷も人影も跡形もなくなっていて、歴史から見ると行平と貝喰の中間に位置する退去時期だ。この3箇所は是非とも比較して訪問するといい(というかここまで来たらそれしか選択肢がない)。

特徴

由利本荘市矢島町、一般的には由利高原鉄道の始発駅として知られている。1万国を有した生駒氏は、ゆるやかな坂道沿いに豊かな城下町を築き上げた。ほかにも龍源寺天寿酒造でも知られていて、コンパクトながらインパクトのある街並みを楽しむことができる。

だがそんなコンテンツは我々の眼中にも入っていない。ここは高難度ダンジョン鳥海町の手前にありながら、廃村ファン必見の名スポットを数多く有する県屈指の名所なのだから。はいここまで貝喰行平と同じ。

廃村 十二ヶ沢 貝喰 入口

どうしても入口はここしかない。今度逆から挑戦したい。

矢島町新荘地区と東由利町田代地区を繋ぐ県道32号線、そこはガラ空きのパンドラの箱なのか。

下ストリートビューを過ぎると廃村「軽井沢」が出てくるが、そこからは更に更に山をひたすら登っていくことになる。米粒写経のように連なる矢島町の風景は(ある意味)絶景である。

ちなみに廃道研究家である「ヨッキれん」氏のページには、橋梁開通前の道中(2004年)が克明に記されている。現在の道を通って切なさを覚えた方には是非一読願いたい。

上記の通り絶景を眺めたい気持ちもわかるが、やっぱり左折しちゃおう。左折先も記入しろ!

googleマップでも「十二ヶ沢」は表示されるが、文字表記は実際の場所から少し南にズレているので注意したい。表示を信じて南下すると立石地区に引き戻されてしまう。これが神隠しか。

十二ヶ沢 廃村 道中

左折してすぐの道路。先に集落は…あるのですか?

行平、ましてや貝喰に行く猛者でなければ一番最初に見えてくる小屋をシカトし、沢沿いの林道を抜けると十二ヶ沢が見えてくる。

地名由来はその沢が見れる場所の多さだったのだろうか。しかし今では草木に覆われ、往時の姿は愚か生命の息吹を発見することも困難になっている。(だからこそその後見える行平の驚きが大きい。)

十二ヶ沢 廃村 メイン

十二ヶ沢集落跡(2018年7月撮影)

わずかに登り坂が見えるだろうか。これが唯一生き残っている廃屋への入口、つまり玄関スロープなのだ。行平の15年後が危ぶまれる。

ここから尋常じゃない量の虫さんと戯れたい食中植物の皆さんは、ここから更に歩みを進めてみよう。

十二ヶ沢 廃村 廃墟

唯一の住宅跡。左側にはポールのようなものが立っていた。

なんとか撮影した上画像だが、この住宅すらも道路からは気高き竹林にディフェンスされていて、ゴリや流川でもポイント獲得は不可能となっている。

そして当委員会はこれこそが「矢島小学校十二ヶ沢分校」(明治43年開校、昭和47年閉校)だと確信したのだが、その推測は後日打ち砕かれることとなる。

平成のはじめの十二ヶ沢は1戸だけが生活しており、ほかは移転して建物はほとんど残っていなかった。(中略)夏になると十二ヶ沢で過ごし、冬になると町で生活する夏山冬里方式で生活していた。 ※「秋田 ・消えゆく集落180/佐藤晃之輔/2017」

 

そう、現在生き残っている建物は最後までここで住み続けた方の住宅跡だったのだ。

現在の田んぼは元行平の住民が耕作しているということで、十二ヶ沢は完全に集落の歴史が終わってしまったことになる。「分校があったため周辺集落でも中心地的な扱いだった」とあるが、その光は全くない。

十二ヶ沢 廃村 廃墟アップ

廃墟アップ。鳥獣被害を防ぐため、木が打ち付けられている。

訪問後の調査でわかったことだが、「矢島小学校十二ヶ沢分校」は写真のある廃墟から更に手前、短いガードレールの着いた橋の更に手前、立石地区に至る登り坂と橋の間にある左手のスペースだったという。

秋田・消えた分校の記録」ではその登り坂から撮影したとみられる写真が掲載されているが、往時の棚田らしき絶景は当然見えない。見えない以上に草木が生い茂って何も見えない。分校跡は”集落会館として利用されていたが、現在は過疎化により利用されず農機具小屋となっている”と書いてあったが、その小屋も全く存在していなかった。

 

「消えゆく集落180」では2棟の建物が残るのみと書かれていたが、そのうちの1棟も解体か崩落してしまったのだろう。自然の力は時に残酷である。

32号線の小集落たち、とくにこの3集落跡は我々に何を訴えかけているのだろうか。知らないことがありすぎるが、知れないことが歯がゆい。歴史を一片を感じられる名街道だ。

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