廃村 矢島町十二ヶ沢(じゅうにがさわ)
About 廃村 矢島町十二ヶ沢
秋田県由利本荘市矢島町立石十二ヶ沢にある集落跡地で、2004年無人。最盛期7戸とされているが、家屋は一棟を残すのみである。不審火による全焼などでなくなったものもあるらしく、周辺の廃村よりも状況は荒れている。
スポット評価
終末度合い | 13 |
訪問難易度 | 16 |
観光地要素 | 11 |
化石的価値 | 14 |
総合評価 | 54 |
ここから更に奥には廃村「行平」や廃村「貝喰」が出現する。いつの間にか屋敷も人影も跡形もなくなっていて、歴史から見ると行平と貝喰の中間に位置する退去時期だ。この3箇所は是非とも比較して訪問するといい。
さじなげ的特徴
由利本荘市矢島町、一般的には由利高原鉄道の始発駅として知られている。1万国を有した生駒氏は、ゆるやかな坂道沿いに豊かな城下町を築き上げた。ほかにも龍源寺や天寿酒造でも知られていて、コンパクトながらインパクトのある街並みを楽しむことができる。
だがそんなコンテンツは我々の眼中にも入っていない。ここは高難度ダンジョン鳥海町の手前にありながら、廃村ファン必見の名スポットを数多く有する県屈指の名所なのだから。はいここまで貝喰行平と同じ。
矢島町新荘地区と東由利町田代地区を繋ぐ県道32号線、そこはガラ空きのパンドラの箱なのか。下ストリートビューを過ぎると廃村「軽井沢」が出てくるが、そこからは更に更に山をひたすら登っていくことになる。米粒写経のように連なる矢島町の風景は(ある意味)絶景である。
ちなみに廃道研究家であるヨッキれん氏のページには、橋梁開通前の道中(2004年)が克明に記されている。
上記の通り絶景を眺めたい気持ちもわかるが、やっぱり左折。
googleマップでも「十二ヶ沢」は表示されるが、文字表記は実際の場所から少し南にズレているので注意したい。表示を信じて南下すると立石地区に引き戻されてしまう。これが神隠しか。
沢沿いの林道を抜けると十二ヶ沢が見えてくる。
地名の由来は山の神を「十二(おひと)様」と呼ぶことから。しかし今では草木に覆われ、往時の姿は愚か生命の息吹を発見することも困難になっている。
わずかに登り坂が見えるだろうか。これが唯一生き残っている廃屋への入口だ。行平の15年後が危ぶまれる。
ここから尋常じゃない量の虫さんと戯れたい食中植物の皆さんは、ここから更に歩みを進めてみよう。
この建物すらも道路からは気高き竹林にディフェンスされていて、ゴリや流川でもポイント獲得は不可能となっている。
そして当委員会はこれこそが「矢島小学校十二ヶ沢分校」(明治43年開校、昭和47年閉校)だと確信したのだが、その推測は後日打ち砕かれることとなる。
平成のはじめの十二ヶ沢は1戸だけが生活しており、ほかは移転して建物はほとんど残っていなかった。(中略)夏になると十二ヶ沢で過ごし、冬になると町で生活する夏山冬里方式で生活していた。 ※「秋田 ・消えゆく集落180/佐藤晃之輔/2017」
各種資料によれば、上の建物は昭和末期から1戸で生活していた方の住居跡で学校跡は手前の更地にあったことがわかった。短いガードレールがついた橋の更に手前、立石地区に至る登り坂と橋の間にある左手のスペースだったという。
現在の田んぼは元行平の住民が耕作しているが、十二ヶ沢は完全に集落の歴史が終わってしまったことになる。「分校があったため周辺集落でも中心地的な扱いだった」とあるが、その光は全くない。
「秋田・消えた分校の記録」ではその登り坂から撮影したとみられる写真が掲載されているが、往時の棚田らしき絶景は当然見えない。”分校跡は集落会館として利用されていたが、いまは農機具小屋となっている“と書いてあるが、その小屋も全く存在していなかった。
「消えゆく集落180」では2棟の建物が残るのみと書かれていたが、そのうちの1棟も解体か崩落してしまったのだろう。自然の力は時に残酷である。県道32号線は歴史を一片を感じられる名街道だ。