秋田市雄和萱ケ沢 (かやがさわ)
About 秋田市雄和萱ケ沢
秋田県秋田市雄和萱ケ沢地区もとい中の沢地区に位置する小集落群。由利本荘市に面する秋田市の南端エリアで、川沿いに数戸が点在しており、その景観は一見の価値あり。
スポット評価
終末度合い | 18 |
訪問難易度 | 17 |
観光地要素 | 16 |
化石的価値 | 19 |
総合評価 | 70 |
合併したとはいえ現秋田市とは思えない高得点を記録した。観光客が訪れる要素が一切なく、山間部の僻地集落を疑似体験できる優良エリアである。学校周辺も地域住民が綺麗に整えていて、愛着が見てとれる。
秋田市雄和萱ケ沢のB級観光ポイント
サイト開設(準備含め)から早くも3年が経とうとしているが、雄和町がまさかの初登場とは思わなかった。ただ訪問していなかったわけではなく、好きすぎて吟味すしぎたというのが真実である。河辺より断然雄和派の我々。
心のふるさとユアシスはもちろん、貴重資料が満載の図書館、2年前から味が劣化した某湧き水などプライベートでも度々訪れる身近な存在なのだ。
秋田市雄和萱ケ沢地区は市最南部(地勢図でハミ出てる箇所)に位置し、町中心部から既に15km以上離れている。舗装済でありながら、ストリートビュー先輩も侵入していない。
一見行き止まりの小部落への入口にも見えるが、この奥は異常に深い。掟破りの狭窄湾曲農道が続き、行き止まりの10か所に昔から1~2戸が生き残る特殊な限界集落地帯を形成している。他にない奇天烈マップが展開されるのだ。
20戸ほどが詰め寄る萱ヶ沢中心部から南下し、柳沢・土場・(トンネル)・ニタノ沢・又三郎沢までの5km余りの道のりは壮大なロマンに満ち溢れている。
どの集落に入っても昭和田園の原風景を今に残し、力強い生命力を現代に伝えている。軽い異世界転生にもってこいだ。
中の沢の中心部土橋(つちはし)にあるのは雄和町立中の沢小学校の体育館跡。
隣の地区会館と併せて利用されている。雄和町誌(1976)と萱ケ沢郷土史誌(2010)によれば沿革は下記の通り。
- 1882年 新波小の分校として、大橋、萱ケ沢(現多目的開館)と共に開校
- 1897年 大橋、萱ケ沢分校廃止
- 1902年 現在の場所に移築
- 1937年 大正寺小学校の分校となる
- 1961年 児童数79名でピークに
- 1970年 プールが作られる
- 1980年 閉校
1960年代の町内小学校(大正寺、種平、戸米川、川添)は400~700人程度の児童を抱えており、昭和期の繁栄が伺える。2016年には全てが統合し雄和小学校が誕生した。廃校となった学校の歴史も是非取り上げてほしいものである。
【追記】雄和町立中ノ沢小学校に関する単体記事を公開しました。内部潜入に成功しています。
又三郎沢まで進むとT字路にぶつかり、右が雄和萱ヶ沢比丘尼屋敷(びくにやしき)・大平沢(おほへいざわ)と三福の分かれ道→由利本荘市中俣or畑地区へと続く。左が雄和中ノ沢(学校跡)と西風沢(あっちざわ)・道ノ下・和合・真木屋へと続いていく。
この文字列を訪問せずして秋田市を観光したと名乗るべからず。
最奥地の大平沢・中ノ沢・真木屋はいずれも1~2戸が生活するのみで、カメラを構えるのも申し訳ない感動を覚えた。是非とも現地で確かめてほしい。
「雄和の歴史」によれば1961年に中の沢小学校が分校から昇格した旨が記されているが、もう少し経緯や地区ごとの歴史も追記してほしいものである。
町誌によれば大正時代には鍋取温泉(土橋)があったという。まだまだ奥が深い雄和エリア、狭い道路が多いので訪問時は慎重に運転するように。
【追記】
たいへんありがたい資料である集落独自の「萱ケ沢郷土誌」(2008年)というものがある。これによると1961年には子供が117人いたが、2008年にはわずか4人になってしまったという。
また、集落および周辺の資料は戊辰戦争の影響であまり残っていないそうだ。うーん残念…
ちなみに集落内の猿道ヶ沢は「迂回屈曲した山道で、猿でなければ通るのも難所」だそう。行きたい。