廃村 浮蓋 (うきぶた)
About 廃村 浮蓋
秋田県由利本荘市東由利老方(おいかた)浮蓋にかつて存在した集落。最盛期6戸で1998年に無人となった比較的新しい廃村で、小屋一棟が残る。横手市との境界にあり、トンネルを抜けると旧雄物川エリアになる。
B級スポット評価
終末度合い | 23 |
訪問難易度 | 17 |
観光地要素 | 15 |
化石的価値 | 21 |
総合評価 | 75 |
ストリートビューでも確認できるが、東由利側は狭隘な道路をひたすら進むことになる。何度も廃村と見せかけて生き残る限界集落を眺めたのち最後にたどり着くのが浮蓋地区だ。地元民が生活道として使っている痕跡はあるので訪問はまだしやすい方か。
廃村浮蓋のさじなげ的B級ポイント
東由利中心地にある湯出野遺跡すらかわいく見えてくる県道48号線沿いは、かつてここに存在した「横荘鉄道」の血を引く道路である。
今や眠る横手駅5番ホームから出発した赤き閃光は、大正から昭和中期にかけて豪雪地帯の重要な交通手段となっていた。その証拠に、東由利町史には「列車が隧道を越えて我が町にたどり着いた瞬間、我々はこの上ない歓声に包まれ、みながこの大工事の偉大さに感謝した」とある。
かつて犬ぞり屋が蔓延るほどの交通難所だった町に、巨大な鉄の塊が颯爽と登場したことはさぞ嬉しかったことだろう。中にはわざわざ横手まで行って電車に乗ってくるひょうきん者もいたという。
まさかそんな歴史の大舞台が姿を消してしまったとは夢にも思うまい。
写真にある部分(トンネル手前)に車が2台ほど寄せられるスペースがあり、ここの少し手前がかつての「浮蓋駅」らしい。なにも…なにも残っていない… トンネル内の暗闇と滴る水の音、鳥のさえずりだけが聞こえる静かな場所だ。
集落の歴史は古く、小野四良左エ門家は1600年代に住み着いたとの記録が残っているし、浮蓋山ノ神の神社に「寛政7年(1795)支配作十郎」の棟札が奉納されている。また、小野孫輔家の墓石には、文政9年(1826年)の文字が見える。 ※「秋田・消えゆく集落180/佐藤 晃之輔/2017」より抜粋
手前の祝沢集落には数軒家があって駅が作れそうなスペースもあるが、当時はもう少し狭かったのだろうか。東由利側にはかつて浮蓋駅と老方駅(現在の道の駅から少し北、「グループホームきざくら東館」付近)の2つしか存在しなかった。
それもそのはず、名だたる地主たちの力添えもあって進められた偉大なる陸羽横断計画(秋田でいうところの本荘~横手間の鉄道開通)は、天災によって打ち砕かれることになる。
長年にわたって道路補修や建築用骨材として川砂利が濫獲されており、加えて戦後行われた治水目的の堤防工事もあって建設当初よりも河床が低下していた。そこに1965年(昭和40年)7月9日の集中豪雨いによって(中略)危険な状態となり、(中略)1966年(昭和41年)2月4日早朝、出勤前の見回りに出ていた職員の目前で9号橋脚が倒壊。館合~二井山間は営業廃止となった。 ※「RM LIBRARY 61 羽後交通横荘線 -オラほの横荘っこ-/若林 宣/2004」より抜粋
ただでさえ財政的に厳しかった横荘鉄道の経営に、橋の復活というのは到底不可能な難題であった。
また、1966年には「マイカー元年」と呼ばれる初代カローラの発売が片田舎にも否応なく影響を及ぼし、鉄道不況を先取りした車社会化が起こったのだという。そして1971年全線廃止となった。もし夢の團萬(団万)鉄道が開通していた暁には、浮蓋の命ももう少し長引いたのだろうか… (※浮蓋は1953年廃止)
【追記】2019年6月再訪。晴れの日の廃村は、美しいコントラストに包まれていた。調べたところ画像奥が集落跡で、80年代の地図では3戸が確認できた。