観音森 道中 サムネ

にかほ市観音森 ~苦しみとの闘争~

にかほ市観音森 (かんのんもり)

にかほ市観音森

About にかほ市観音森

秋田県にかほ市象潟町小砂川観音森にある開拓村。標高360mに位置する、鳥海山のお膝元にある行き止まり集落である。住宅が5棟あるが、2018年訪問時はうち2棟が使われていないように見えた。

スポット評価

終末度合い20
訪問難易度19
観光地要素21
化石的価値21
総合評価81

周辺の集落とは一線を画し、ほかにはない静けさを宿している。道中にはつぶれたおもしろ館や、土管に繋がれたガリガリのヤギ(あまりにショッキングだったので画像未掲載)、たどり着けない場所にある橋の跡など意味深なものが多い。それは全て偏見に過ぎないかもしれないが、憶測するのも散策の醍醐味だ。

さじなげB級ポイント

枯れ果てた母なる大地は時代の終わりを知り、平成すら知る由もない数多くの部落が闇の中へ消え失せようとしていた。だからこそ我々は終われない。

小砂川駅から南に下り、小砂川小学校跡地のグラウンドをナメながら駅東に入る。少し北上して7号線の下をくぐり、ミツワ樹脂工業 秋田工場を確認したら最初の十字路を右折すると大須郷に入る。
(有)翠松園の看板を確認したら直進あるのみ。一期一会への入り口がそこに開けている。今日の旅には、どんな出会いがないのだろうか。

にかほ市小砂川地区は県内最南端集落のひとつで、海岸沿いの美しい景観と透き通った湧き水は美食には欠かせないエッセンスとなっている。

しかしながら修験の山を抱える街の宿命は重い。火山噴火と共に現れては消える小集落のように、山間部は点在する集落たちがいまかいまかと絞首台に並ぶ。
上地図を見てわかるように道路は舗装されているが、かつてここを開拓した偉人たちはこの急こう配を登ったのかを驚かされる。歴史はいつも残酷だ。

観音森 看板

アクセル全ふかしで360mを駆け上がり、開けた空間が見えると間もなく挨拶看板の登場だ。

山火事注意・忠告
観音森地区においては
杉林・雑木 等
農地・牧草地・畑
それぞれ私有地につき
関係者以外の立入を
お断り致します。
観音森地区
  環境部長

ご丁寧に部長様がお怒りで在らせられる。先人が開拓した功績をよそ者になど触らせないという強い気概が感じられる。併せて集落がひとつの組織であることを再確認できる素晴らしい前時代アートといえよう。

観音森 ウシ

理由はすぐにわかる。看板を過ぎてすぐ左手には見慣れない車を見つめる乳牛たちの姿があった。その数ゆうに50頭はいるだろうか。
牧場ではない私有地でここまで大量のウシを見かけるのも珍しい。しかし我々はここが集落の入り口であり、私有地エリアを事前に把握済なので臆することはない。

明治生まれの詩人、武者小路実篤は次の言葉を残している。

人生は
むつかしく解釈するから
分からなくなる


そう、散策に躊躇は禁物なのだ。どんな魑魅魍魎が蔓延っていようとも、我々こそが一番の害悪であり、怖がることなど何もないのだから。
他人の不幸は最大の幸福であると、威嚇する鳴き声が我々を歓迎していた。

にかほ市観音森 メインストリート

観音森は大きく3つのエリアに分かれている。はじめは乳牛たちがひしめき、2棟が門番のように待ち受けるエントランス地区、次に1棟が完全に独立し、集落内では一番の新居ながら物音ひとつない新参廃墟地区(2014年ストリートビューでは現存)、そして上画像の行き止まり地区がある。

行き止まりには3棟が団子状に連なり、下から一棟目は現存、二棟目は通路向かいに廃墟小屋を有する小さな廃屋、そして一番奥に巨大な倉庫を構えたラスボスが待ち受ける。

にかほ市観音森 分校跡
集落最奥にある小屋。その正体は自治会館兼廃校である。

奥へ行くほど恐怖感は募り、頼みの綱の攻略本には最後のカーテンが開けられないままなりを潜めている。「ONE PIECE」のサンジ幼少期回だろうか。少ない食料を貪りながら、わずかな希望を信じて助けを待つあの恐怖に似ている。

観音森地区について書かれた数少ない書籍のひとつである「上浜小学校 百周年記念誌」には次のような記述がある。

昭和23年春、家族とともにやっとの思い出、この村に引揚げてきた時、私は六年生であった。ほとんどが私と同じように外地からの引揚者で、文字通り着のみ着のまま同じ境遇の人たちばかりだった。
敗戦というあの苦しみからやっと逃れて、安住の地を見つけた住人たちは、今度は生きるための戦いに、心を一つにして挑まねばならなかった。

上浜小学校 百周年記念誌 入植者の証言
にかほ市観音森 神社

そう、ここは普通の部落集落、限界集落ではない。

戦後引き揚げ者に国が与えた土地、全国開拓農業協同組合連合会によって定められたいわゆる「開拓村」の生き残りである。
食べ物に困窮した戦後間もなくから始まったいわば”救済措置”だが、当時明日の食事にも困る日本国民に安住の地など存在しなかった。そこで山間部にあるわずかな平地や急傾斜などの理由により、定住者のいなかった一帯が「住民自らの開拓」を条件に定住を許されたのだ。(詳細は割愛する)

つまり観音森は、戦後間もなくまで全くの原野だったのだ。

稲作畑作にも向かない高地で生き抜くために酪農が息づき、家畜とともに幾度となく山道を往復して作られた現代の遺産ともいえる土地といえよう。
「象潟町史 通史編下巻」には、当時の凄惨な生き様が克明かつ鮮明に記されてる。一時は見放された行政の傾き、上浜小学校 観音森分校(1948~1976)における先生の苦悩、大幅に遅れたインフラ整備など月並みな言い方になるがドラマ化間違いなしの紆余曲折が字面だけながらにしてトラウマを植え付けてくる。

観音森 道中

秋田 消えた分校の記録」には観音森分校に関する歴史が綴られているが、「地区会館として残る」「中に当時の写真が残っている」とされる分校の建物らしきものは確認できなかった。

著者である佐藤晃之輔氏にも電話取材を慣行したが、建物は残っていないものと思われる。ただ記念碑はどこかにあるはずだと話していたので、次回訪問の理由付けができた。
また、佐藤氏は「観音森のことは是非町の資料館で語り継いでいってほしい」とも話していた。現存する住民が少なく、我々が話しかけても一切無視する状況であることを鑑みると事態は深刻さを極めている。


ちなみにメンバーのサエモンが聞いた噂だが、地区の住民同士は非常に仲が悪いのだという。上画像に見えた電波塔建設にも根強い反対派がおり、その影響か2017年に町へ降りた者がいたという。
真相のほどは定かではないが、残していくべき歴史があることは確かである。争いごとは早急に解決していただき、後世への遺産を残していただきたい。

【2020.06.28追記】
1988年の住宅地図では6戸が確認できた。手前の家屋から自治会館に至る未舗装道の記述があるが、その後の地図では消滅していた。