吉乃鉱山 (よしの)
About 吉乃鉱山
秋田県横手市増田町吉野にある鉱山跡地。坑道への入口は閉鎖され、近年鉱排水処理の実験設備が整備された。近くまで車で侵入することができ、案内看板も設置されている。
スポット評価
終末度合 | 20 |
訪問難度 | 14 |
観光要素 | 22 |
化石価値 | 23 |
総合評価 | 79 |
不思議に思う。時に人間は教育された物事を”事実”ととらえ、自身の哲学に取り込もうとする。しかしそれは真実を歪ませ、歴史という失敗の積み重ねを無視することに繋がる。
吉乃鉱山のさじなげB級ポイント
蔵以外の増田町は暗闇に包まれている。今では観光地として名を挙げた地だが、まんが美術館の話が出るまでは「人に見せる町ではない」という主義の地域だったという。
角館の武家屋敷通りにも似たことが言えるが、格式高い町には差別と年功序列が根強く残っている。その矜持はときに部外者を蔑み、新たな活力を取り込みにくい側面がある。
増田の街外れでひとっ風呂浴び、入ってはいけない村に向かう途中に不自然な壁がある。
西成瀬交流センター(2002年閉校の小学校跡)近くで、蔵と朝市を見てここを見過ごすようでは到底楽しい老後しか過ごせない。賢い観光には事前知識がつきものである。
増田のブタ小屋の先に吉野という集落がある。その奥で鉱山採掘時の鉄策(鉱石を運搬するためのロープウェー跡)が我々を迎えてくれた。
丁寧な案内板を見ると、現在地がかつての「吉野駅」だったとわかる。通常の廃鉄道の歴史サイトでは出てこない路線であり、それには複数の理由が付きまとっていた。
分校はいつもふたつ
吉乃鉱山は1720年に発見された鉱山で、大正時代(1912~1926年)に全盛を迎え9000人が生活していた。鉱山内には西成瀬小の分校(分教場)も設置された(※閉山後は湯ノ沢分校が役割を担った)。戦後の労働力低下などを理由に1957年に閉山するまでは秋田県南部を代表する黒鉱鉱山として知られ、当然公害も多く発生した。
増田の内蔵は鉱山の栄華と同時期に建築されたもの。1895年に増田銀行(北都銀行の前身)が設立されたことを考えれば、その賑わいが現在の増田の中心街を形成したことは想像に容易い。
鉄策の脇には目を見張る規模の社宅跡地がある。階段を強引に登っても不自然な平地が残っているだけで、面影は一切感じられない。ここに45棟×5家族=当時でいくと最低でも500人以上がいたことになる。
西成瀬村時代には吉野の鉱山社宅向かいに役場があったという。加工のため十文字駅から発盛鉱山まで運ばれた金属たちはどこへ行ったのか。いまは活気の残骸すら微塵も見られない。
そして吉乃は観光坑道としての開発が行われなかった。その理由として時代が早すぎたことと、増田自体が観光に消極的だったことが挙げられる。
上小阿仁でもよく聞いた話だが、昭和中期に好景気で沸いた地域は利権に溺れてしまう。歓楽街で一夜にして数百万を叩き、愚かな人間はそれが永遠だと勘違いしてしまうからだ。
朝鮮新報には、吉乃鉱山に従事した朝鮮人への虐待に関する記事が掲載されている。当委員会は地域に悪態をつきたいわけではなく、あくまで事実を述べているだけだ。知ることでより秋田を好きになってきた我々の意向により掲載している。
犠牲者追悼の碑もあるらしいが、見つけることができなかった。発盛と同様に、観光坑道にならなかった場所は資料保存やメディア掲載が非常に少ない。西成瀬小の中に鉱山の資料は存在しているものの、働いている人間がどこから来たのか、どんな課題があったのかは記されていない。
昭和期のジャーナリスト野添憲治氏が鉱山跡を訪問しようと問い合わせた際、役場や地域住民による協議が行われたという話もある。更に朝鮮人を哀れんだ朝舞の住職が墓を建てたという話もあるが、現地を確認できていないため真相は明らかではない。増田では作れない理由が、あったのだろうか…